4月2日、金沢市の蓮昌寺で桜下の宴が開かれました。

「昨日、満開になりました。桜を愛でるのは日本人ならでは。ほッとしますね」。このお寺の雄谷良成上人(当協議会会長、佛子園理事長、JOCA会長)は訪れた檀家さんに笑顔で話していました。また、訪れた方々への挨拶では、

「”散る桜 残る桜も 散る桜”は良寛の句です。いま咲いている桜もいずれは散る、という悲しい句に聞こえますが、ソメイヨシノを人に例えるならば、花が咲いた後に葉がつく。それは一生懸命に生きて、次の世代につなげるという意味も込められています」

桜はこうして何百年もの間、人の人生を見てきたのでしょう。

「子どもから高齢者まで、障害のある人もない人も、(この場に観光で来られている)フランスや中国の方も、いろいろな方がお越しくださいました。コロナ禍が始まって3年以上、そろそろ元気を取り戻すころと桜が教えてくれているのではないでしょうか」

桜花の宴では金沢の花街であるひがし茶屋街・仲乃屋の芸妓の方々が「元禄花見踊」による素敵な舞を披露してくださいました。「元禄花踊」ができたのは蓮昌寺に安置されている金沢三大仏のひとつ、丈六の釈迦如来立像が造像された元禄時代(1688~1704年)。蓮昌寺は本能寺の変のあった天正10年(1582年)に創建されました。

ちなみに花街の芸妓さんを支える「旦那」の語源はサンスクリット語の「dāna(ダーナ)」で「お布施」の意味があるそうです。臓器や骨髄の提供者、あるいは国際支援のための援助供与を意味する英語「Donor」もそこから派生したとのこと(雄谷良成上人から教えていただきました)。

宴の最後に蓮昌寺の檀家総代である目細さんが挨拶に立たれました。目細さんは、蓮昌寺創建よりも7年早い天正3年に創業し、いまも代々続く老舗中の老舗「加賀毛針 目細八郎兵衛商店」のご主人です。同商店の毛針は糸の通しやすい良質なもので、加賀藩主から「めぼそ針」という針の名前を授かったとのこと。それが当時の町人には認められていなかった名字=目細になったそうです。現在、「加賀毛針 目細八郎兵衛商店」は伝統の技術を活かした数々のアクセサリーもつくっておられます。

表題は目細さんがつくられた句。毎年、花まつりに寄せてくださっています。

その後は2年前に亡くなった五井建築研究所の西川英治会長を偲ぶ会が開かれました。息子の健太郎さん、娘の暁子さんも参加され、故人の思い出を語りながら、西川さんの思いを受け継ぐとともに、ご本人が「えッ」と驚くような建築をつくっていこうといった話にもなりました。

「ごちゃまぜ」と言い始めたのは、西川さんは「雄谷さんが先」、雄谷さんは「西川さんが先」とお互いに思っていたそうです。

西川さんと「ごちゃまぜ」の関りについては、2年前の以下のブログをお読みください。

きみはこの建築でこのまちをどうしたいと思っているのか ~追悼 西川英治・五井建築研究所代表取締役会長~