新型コロナウイルスの感染が拡大するなかで注目されたsocial distancingは「疾病の感染拡大を防ぐため、意図的に人と人との物理的距離を保つ」という公衆衛生学用語である。一方、社会学用語としては「特定の個人やグループを排除する」であり、両者は区別しなくてはならない。
本特集に登場する当協議会会長の雄谷良成(社会福祉法人佛子園理事長、公益社団法人青年海外協力協会会長)は金沢大学医学部で公衆衛生学の講義を行っている。医療従事者を目指す学生に対して、「公衆衛生学的には“social distancing”を保つ必要がある一方、新型コロナウイルス罹患者、濃厚接触者、クラスター発生組織などに対する差別や偏見は“特定の個人やグループを排除する”動きにつながるので、社会学的意味での“social distancing”は防がなくてはならない」ことを伝えている。公衆衛生学というと、もっぱら疫病などの対策というイメージがあるが、広義の公衆衛生には社会学的要素も含まれており、医療における社会学的観点の必要性を重点的に話しているそうだ。文系出身の彼が理系の医学部で講義を行っている理由はそこにある。
“ごちゃまぜ”とは社会的排除をなくすことである。公衆衛生学的解釈である「物理的な距離」を保つことと同時に、「精神的な距離」をつめることも考えなくてはならない。
移動しない、集まらない、を基本とする新型コロナウイルス対策は、地方創生が目指すところとは真逆のものだ。しかし、都市圏における3密状態(❶換気の悪い密閉空間、❷多くの人が密集している、 ❸互いに手を伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる)の解消が喫緊の課題であることも事実だろう。
3密は匿名性の高い都市で発生しやすく、地方におけるお互いの顔が見えるコミュニティでは起こりにくいものである。とすれば、これからの日本では、物理的にも、精神的にも「風通しのよい」まちづくりがより大切になってくるだろう。そのためにはICT※などの最新技術の駆使も不可欠だ。生涯活躍のまちもそれに合わせて、ステージを上げていかなくてはならない。さらなる挑戦である。

ICT 「Information and Communication Tecnology(情報通信技術)」の略で、インターネットなどの通信技術を活用したコミュニケーションを指す。ITとほぼ同義語だが、ITが技術そのものを指す用語であるのに対して、ICTは情報を伝達することに重点を置く。


はじめに

サブタイトルの「不良な場所を作る」から判断すると、生涯活躍のまちが重視する4つの要素=「活躍・しごと」「交流・居場所」「住まい」「健康」に茶々を入れるような内容になっていると誤解されるかもしれない。「活躍しなくてもいい、そこにいるだけで」「多少身体に悪いことでも心の健康にはいいかもしれない」といったことを肯定しているからだ。それが『サードプレイス とびきり居心地よい場所』(米国の都市社会学者、レイ・オルデンバーグの同名著書より)をつくるうえで大切なことでもある。当協議会の会長であり、社会福祉法人佛子園理事長、公益社団法人青年海外協力協会会長を務める雄谷良成が示す、生涯活躍のまちをさらにバージョンアップする視点をお届けする。


不真面目な場所

 誰にでも役割と居場所があるコミュニティ——これは生涯活躍のまちの基本ですが、これに関する議論はいささか真面目過ぎるのではないか。というのも、とくに役割がなくても、そこへ行く理由がなくても、ふらりと立ち寄って、何とはなしに時間を過ごす場が大切だと思うからです。

 お酒を飲みながら、そこに来ていない人について、「〇〇もしようがないなあ」などと噂話をする。ちょっとした悪口だって、それに愛情が込められていることってありますよね。それはその人を気遣っていることでもあり、それがひいてはお互いの見守りにまで広がることもある。居場所というものを「サードプレイス=とびきり居心地よい場所」にしましょう、というのがぼくの考えです。

ごちゃまぜが生まれるまで

 ぼくが理事長を務める社会福祉法人佛子園での経験をお話ししましょう。

 ぼくの父、雄谷助成は昨年9月6日に亡くなりました。享年80。佛子園の会長、そして僧侶としての師でもありました。死因はすい臓がん。最期は抗がん剤などの医療的措置をしないことに決めました。

 ぼくの祖父は日蓮宗行善寺の住職として、戦後、孤児を引き取って育てていました。1960年には知的障害児の入所施設である現在の佛子園を開設。ぼくも生まれてから小学校の中学年までは施設のなかで障害児たちと一緒にご飯を食べ、お風呂に入り、寝ていました。自分の家族よりも彼らと過ごす時間の方が圧倒的に多かったのです。

 ぼくは大学を卒業後、地元で特別支援学級のカリキュラムをゼロから作って立ち上げ、教師としてそこに勤務し、その後は青年海外協力隊としてドミニカ共和国に赴任。帰国後は北國新聞社での勤務を経て実家の佛子園に入ったのですが、当時、佛子園が運営する障害児施設はぼくが幼少期に育った1カ所だけでした。その施設から出た知的障害の人は、町の中にあるグループホームに入ったり、軽度の障害の子は就職したりするのですが、なかには職場で虐待を受けて施設に戻って来る人もいました。

 そこでぼくは、障害のある人も安全に暮らせる場をつくらなければいけないと思い、重度の障害者支援施設「星が岡牧場」や障害のある人たちが安心して働ける場として「日本海倶楽部」などを立ち上げ、2008年には廃寺を再生した「三草二木 西圓寺」で、まちづくりにも取り組むことになります。

 そこでは高齢者のデイサービス、生活介護、障害者の就労継続支援などのサービスが利用できます。その施設では温泉を掘ったり、食堂をつくったりして、障害のあるなしや、老若男女に関係なく、誰もが気軽に集まれるコミュニティにしたのです。ここが「ごちゃまぜ」の原形となり、その後のShare金沢、佛子園本部の「B’s行善寺」、輪島KABULET®︎などへと発展していきました。

看取り、看取られる

 ぼくと一緒に施設で育ち、その後は佛子園が運営するB’s行善寺の障害者就労継続支援A型事業所で、地元の高齢者へ配食サービスをしている男性がいました。父よりも年齢は一回り下の「飲み友だち」です。その彼が末期で病院のベッドに寝ている父を見舞いにきて、こう言いました。「寝てる場合じゃないだろう」(笑)。そして「これもってきた」という彼の手には、父が愛飲していたウイスキー『サントリーオールド』が握られていました。

 そのときの父はがんの痛みを緩和するためにモルヒネを投与されていました。その副作用で意識は朦朧としているはずなのですが、ぼくに一言、「酒を出せ」と。しかも「病院の氷は消毒臭いからだめだ」というので、近くのコンビニでかち割り氷を買ってくると、力がないはずの父の右手がグラスを握ったのです。そして、3杯飲みました。

水割りを3杯飲んだ助成さん

 そのとき「素」に戻ったのでしょう。見舞いには彼の他に、かつて盗癖のあった男性も一緒に来てくれていました。彼はドラッグストアなどに寄っては商品を盗んでいました。その都度、ぼくらが出向いてお店の人に謝るのですが、そうした行為が何度か続いたため、彼は執行猶予となりました。今度やったら刑務所行きです。その彼が「三草二木 西圓寺」ができて、地域の人たちと触れ合うようになってからモノを盗まなくなった。そして、いまでは門の前を進んで掃除をするようになり、父の見舞いにきてくれる。これはどういうことなのかと思ってしまうのです。

 父が遷化※する日の未明、ぼくは「師僧の一日」という文章を書きました。ぼくにとって父は僧侶の師でもあるから「師僧」。初めのところを紹介します。

 「師僧の一日は早い 最近は特に早くなった 本堂を開け朝勤 この三年間はほとんど休むこともない 終えると境内をゆっくり歩き歩きしながら朝食に 食後は保育所へ 欠かさず顔を出すから 子供達があっという間に集まってくる 後は新聞や読書 庭いじりなど気の向くまま穏やかに時間が流れていく 午後は幼い頃から面倒を見てきた知的障害の人達やご近所さんが隣の『繋珠堂』にやってくるので他愛のない話をして過ごす 夕勤を終えると本堂を閉め温泉 風呂上がりのビール 興が乗ると水割をもう一杯」

遷化「せんげ」と読み、仏教界では僧侶が亡くなることを、こう表現する。

気配を感じる空間

 この姿をぼく以外にも黙って見ていた人がいました。利用者の池田ゆり子さんです。彼女は不安障害を抱えています。ある特定の状況や人との関係に緊張感が高まると、次第にそのような場面を避けるようになり、それがどんどんエスカレートして日常生活にも支障をきたしてしまうのです。その彼女が『だいどころでおてつだい はじめてのチキンライス』(幻冬舎)を出版し、絵本作家としてデビューしました。

 池田さんは佛子園の新しいカレンダーもつくってくれたのですが、そのなかには昨年9月に亡くなった父がいるのです。11月には庭の落ち葉を掃きながら子どもたちを見守っている姿が上から俯瞰する視点で描かれています。12月には多くの人が集まる境内のなか鐘撞き堂のそばに立っている。生前、2人にはそれほど接点がありませんでした。けれども彼女のなかでは父がまだ生きているんですね。

 月命日にはくだんの飲み友だちが、父がいつも座っていたB’s行善寺のカウンターにウイスキーのボトルと父の好きな甘いものを置いていました。誰かがそこに座ろうとすると、ここは父の場所だと彼はいうのです。

池田ゆり子さんの描いた11月のカレンダー

 そういう光景を見ていると、看取りというものは一方通行ではないのだなあと思います。人間は必ず死ぬのだから、逝く方と逝かない方という分け方はできない。ソーシャルワークは人を支える仕事ですが、それだけでなく、ただ人と同じ場所にいて同じ時を過ごせるような空間も必要なのではないでしょうか。

 「気配」という言葉があります。これを「けはい」と読む場合は、「気配を感じる」というように、その場やそこにいる人たちが醸し出す空気を察知するといった行為ですが、これを訓読みで送り仮名をつけると、「きくばり」となって、人に対する心遣い、配慮、気遣い、心配などの意味を帯びてきます。その人の表情やしぐさ、言葉などから発せられるものを感じ取り、思いやったり、同情したりする。そこでは時に言葉はいらないのかもしれません。上述の池田ゆり子さんが父に、そして父がおそらく池田さんに気を配っていたように。お互いの距離は離れていても、気持ちが通じ合う。そうしたことが自然とできる空間に佛子園の施設がなっていったのだと思います。

サードプレイスとは

 話を「はじめに」の『サードプレイス』に戻せば、居場所づくりを居心地がいい場所づくりへ進めていくと、関係人口も増えてくるのではないでしょうか。関係人口には5段階のステップがあるのかなと思っています。その土地に興味をもつ、だんだん愛着がわいてくる、そこに通うようになる、地域の飲み屋さんなどの顔なじみが増える、そして、もう住んでしまおうかという移住につながっていく。生涯活躍のまちでは、「住まい」と「活躍・しごと」を重要な要素として挙げています。前者を家庭、後者を職場とみなせば、オルデンバーグ流にいうとそれぞれファーストプレイス、セカンドプレイスになるわけで、その2つ以外の場所=サードプレイスの存在が大事になってくると思うのです。

 英国ではパブ、フランスではカフェのようなふらりと立ち寄れる場所ですね。米国は近代になって住宅地を郊外にもっていって、ショッピングモールなどをつくって自動車型社会にしていきました。その結果、徒歩で集まることのできる場所がなくなり、コミュニティがどんどん弱体化していった。日本のニュータウンもある種、同じ道を歩いてきており、だからこそいま郊外の団地の再生が急務となっているわけです。

 「活躍しなくてもいい」「身体に悪いことがときには心の健康につながることもある」といったことを言い始めると、生涯活躍のまちの要素を否定していると誤解されかねませんね(笑)。そもそも居酒屋などで「活躍」することはない。飲み過ぎる人が一番活躍するかもしれませんが(笑)、そこにさりげなくいる人、常連さんの存在が実は大事な役割を果たしていると言いたいのです。一見、何もしていないようですが、決まった人がそこにいるだけで安心できる場といえばいいでしょうか。

不良な場所

 仕事や家族の都合などで行く時間が決められることもない。いつも通うわけでもない。何日も御無沙汰したり、たまに立ち寄ったり、無計画で予定外で、組織のまとまりがなく、型にはまらなくてオーケー。そういうところが居心地のいい場所だったりする。われわれ佛子園や青年海外協力協会が各地で展開しようとしている温泉やフィットネスジム(GOTCHA! WELLNES)なども時間に縛られない空間です。それが心地よさを生んでいる理由かもしれません。

助成さんの定位置だったカウンター席に置かれたウイスキーボトルと好物の甘いもの

 生涯活躍のまちには「不良な場所」づくりみたいな面があってもいいと思います。決まったグループだけではなく、いろいろな人とも交流できる、パブやカフェの上を行く「新しいサードプレイス」。生涯活躍のまちのさらなるステージに進んでいきましょう。


大阪の下町の路地にある築50年の文化住宅を改修してできたJOCA大阪(青年海外協力協会の大阪事務所)の新しい事務所には、普段から近所の高齢者や子どもたちが気軽に立ち寄り、スタッフは地域の人々と同じ空間で仕事をしています。しかもとても自然に。そんな「場」がどのようにして育まれていったのか。コロナ禍による緊急事態宣言後のことも合わせて、JOCA大阪代表の河合憲太さんにお話を伺いました。

(かわい・けんた)1975年京都市生まれ。1997年大学卒業後に青年海外協力隊(インドネシア派遣、 職種:水球)に参加。帰国後、国際協力機構(JICA)のジュニア専門員などを経て、2008年JOCAに入職。本部(当時東京)勤務の後、近畿支部(大阪)に異動し現職。

——JOCA大阪は2018年7月に拠点を交通の利便性の高い梅田(大阪市北区)から摂津市に移されました。

 梅田の事務所では一般市民や異業種の方々と接する機会が全くなく、地域に身を置いて、そこで暮らす人々と接しながら地域貢献していくべきじゃないかと考えていました。

 拠点を移す大きなきっかけになったのは佛子園への視察です。老若男女、障害のあるなしに関係なく、“ごちゃまぜ”の施設で過ごされている地域やスタッフの方々の日常を目の当たりにして衝撃を受けました。誰がスタッフで、誰が利用者なのかもよくわからない。みんなが普通にリラックスしている光景がすごくいいなと感じました。

 同じころ、NHKの『ドキュメント72時間』という番組で神戸の町工場界隈にある駄菓子屋さんの日常を観ました。地元の子どもたちから「ねえちゃん」と呼ばれている女性店主は、いうことを聞かない子どもを容赦なく叱ります。にもかかわらず、子どもたちは次から次へとやってくる。子どもだけでなく働くおじさんやシングルマザーなども常連で、そうした空間が自然に生まれたことに強い感動を覚えたのです。そして「佛子園や“ねえちゃんの駄菓子屋さん”みたいな場をつくりたい」との想いが沸いてきました。

——JOCAの本部が東京から長野県の駒ヶ根市に移転する時期とほぼ重なっていますね。

 「もっと地域の人と交われる場所へJOCA大阪の拠点を移したい。人との関わりが薄れている都会にこそ、ごちゃまぜの居場所が必要だ」と社内会議で訴えた結果、承諾をいただきました。

——しかも新しい事務所は空き家となった文化住宅(木造長屋)をリノベーション。

 摂津市正雀(しょうじゃく)は文化住宅※や公営住宅などのある庶民的なエリアで、目当ての物件は商店街の路地裏に建つ築50年の古い文化住宅でした。まとまった間取りが取れ、家賃は梅田の半分以下、目の前の路地は人通りのある生活道路。この環境なら“人々が交流しやすい場”にふさわしいと感じました。

文化住宅 近畿地方で、1950年代から60年代に建てられた集合住宅の呼称。

 近所には喫茶店のような茶飲み場がなく、あちこちで井戸端会議をするおばちゃんたちや、自転車に跨ったまま八百屋の女将と談笑しているおじさんの姿を見かけました。ならば、ここを事務所として使うだけでなく、住民の方々が自由に過ごせるセルフサービスのカフェスペースをつくろうと思ったのです。

 文化住宅の各部屋はかつてクリーニング屋、スナック、碁会所、シングルマザー親子の住まいだったそうです。当時のことを知る地元の80代のおばちゃん(綺麗な紫色のパンチパーマで、とてもお元気な方)は、現在も隣の文化住宅に住んでいらっしゃいます。50年以上、バルコニーの上から、この路地裏の“番人”を務められてきました。最初にお会いした時から、「新生JOCA大阪の“裏番長”はこの人で決まりやな」と思いました(笑)。

——地域に溶け込むのにご苦労はありませんでしたか。

 驚くほど苦労はなかったんですよ。例のおばちゃんにバルコニーの上から、「ここで何すんの。変な商売するんちゃうやろな」と声をかけられ、「ここらへんのみなさんが自由に使える茶飲み場をつくろうと思ってますねん」と返したら、「あんたら若いもんがくるのはええことや。せいぜい気張りよし」と言ってもらえました。

 改修工事の期間は現場へ通うたびに、近所の人たちに「工事がうるさくてすいません」とお詫びをしながら、積極的に会話することを心がけました。同じ文化住宅の棟を借りておられる花屋さんの若大将は、私たちに摂津市長をはじめ市役所の方、自治会長、商工会、社会福祉協議会、商店街の方々など、頼りになる人や関係を構築すべき人たちを紹介してくれました。

——新しいJOCA大阪には自然とご近所の方々が集まってこられたのでしょうか。

 正面ガラス張りのオープンなつくりであること、人が溜まりやすい立地条件だったことがよかったと思いますが、一番大きかったのは地域の方々の口コミです。マイカップを置いてもらい、自分でコーヒーを入れて片付けるというシステムも新鮮だったのでしょう。JOCA自家焙煎の挽きたてコーヒーを50円にしたところ、皆さんから「経費の方が高いんちゃうの?」と心配されてしまい、いつのまにか「赤字覚悟で地域のために活動してはる団体やから、みんなで応援せなあかん」という話が広まったみたいです(笑)。

 開設前のプロセスも大きかったと思います。改修工事のあとカフェに置く家具を地域の方々と一緒に日曜大工(DIY)でつくりました。「みんなで使うカフェだから、みんなでつくると愛着が沸くのでは」とJOCA雄谷会長からアドバイスをもらい、延べ100人で1カ月かけて取り組みました。

 日中によく利用されるのは高齢者の方ですが、放課後には鍵っ子たちも集まります。地元のおっちゃんたちが若者に囲碁を指南し、高校生はLINEのやり方をおっちゃんたちに教えるなど、世代を超えた”持ちつ持たれつ”の関係が生まれています。なかには人が集まる場所に入りづらいという方もおられるので、スタッフが人の少ない時間帯をお伝えしたり、「外の縁台(ベンチ)でコーヒー飲んでいただいてもいいですよ」とお声がけしたり。障害者の方が「こんな私でも入っていいですか」とおっしゃられ、「もちろんですよ」とお答えしたら、翌日から通ってくださるようになりました。

——大阪府内では2日以上発見されなかった孤独死が1年間に約3,000人に上るとのこと。なかには働き盛り世代も少なくないそうですが、JOCA大阪のあるエリアでも独居の方は多いのですか。

 ここの小学校区の世帯数は約5,300、うち独居高齢者世帯は1,000近くで、外に出てこない方も多い。社会全体が「他人に迷惑をかけない」ことに過敏なあまり、必要なつながりまで失っているからではないでしょうか。大阪府の孤独死数全体の7割は65歳以上の男性ですが、2割近くは40代、50代の方です。孤独死はもはや独居高齢者だけの問題ではなくなっているんですね。「助けてほしい」と声を上げられない人をどうケアしていくかは、これからの日本の大きな課題だと思います。

——JOCA大阪に集まる高齢者の方々がお互いに見守りあったり、身の上話をしたり、ということが行われているそうですね。

 JOCA大阪は店舗でも、集会所でも、会員制の施設でもなく、まちかどの「たまり場」といったところです。ここを訪れた方に対しては、「お客様」として接するのではなく、「ご近所さん」の感覚で触れあいたいと思っています。

 カフェは20席ほどで、隣のテーブルとの距離も近く、知らない人同士でも言葉を交わしやすい空間になっています。事務所とはいえ、「ここからはスタッフ、ここからは一般の人」みたいな仕切りはつくっていません。他愛もない会話をするのが当たり前の日常に、新しい人が入ってきて、輪が広がっていく感じです。

 そんな日々を繰り返しているうちにカフェの利用者同士やスタッフとの間にお互いを気遣いあう空気が生まれてきました。毎週決まった日に訪れるおじいちゃんが姿を見せないと、誰からともなく「今日はあのおじいちゃん、どうしたんやろ」という。そうすると、誰かが、その人と連絡を取ろうとしてくれる。 

 92歳でひとり暮らしをしていた常連のおばあさんが亡くなられたとき、彼女の異変に気づいて、病院や親族に連絡されたのはご近所さんたちでした。JOCA大阪の常連さんには、カフェで知り合って、いつの間にか親しくなり、もしものときに備えた終活の段取りまで託す関係になっている方もいます。

 こういう場を作るためのマニュアルのようなものを用意していたわけではありません。こちらから“○○な雰囲気の個性的なカフェ”といったものをお仕着せするのでなく、誰もが“ここは自分が居てもいい場所”と思える空間にしようという思いがいまのような形になったと思っています。

——JOCA大阪は主にどのような収入によって運営されているのでしょうか。

 全国組織であるJOCAの近畿ならびに四国エリアを管轄しているのがJOCA大阪となります。収入は、青年海外協力隊などを派遣している独立行政法人国際協力機構(JICA)からの委託事業が主なものとなっています。

——河合さんは青年海外協力隊員としてインドネシアに派遣されたとお聞きしています。帰国後は日本国内の地域で活動に携わっておられるわけですが、途上国支援における活動と共通するところ、相違するところについて教えてください。

 共通するのは“そこで暮らす人びとと日常的に接する”ということです。現地の人が集う屋台に行き、同じ言葉で話し、一緒に笑う。インドネシアの方々はそんな日本人の若者に親近感を抱いてくれて、そこからお互いを知ろうという関係性が生まれました。それと同じようなことをここ正雀でもやっていると感じています。

 相違するところはインドネシアで自分は外国人のお客さんということ。だから多少でしゃばっても受け入れてくれるし、チヤホヤしてもくれる。でも、ここでは「いつか帰るお客さん」ではありません。長く時間をかけて自分たちの存在を認めてもらうことが大事なので、裏方的な役割に徹することを意識しています。

——コロナ禍での地元はどうなっておられますか。

 3月初旬に学校の一斉休校が始まってからは、とくに高齢者や子どもに配慮し、手洗いやマスク着用などの感染対策をとりながら、カフェの運営を続けました。4月7日に緊急事態宣言が出て大阪府も対象となった後、カフェは休止し、長時間の利用やグループでのおしゃべりは控えてもらっています。

 ただし、個々の人が立ち寄ったり、休憩したりできるよう入口のドアを開けっぱなしにしています。それだけでも安心してくれる方がいると思うので。

 カフェを利用してくれていた常連の方々は、ここで集えない寂しさを感じていると思いますが、つながりそのものがなくなったわけではありません。今回のことで、誰もが当たり前の日常のありがたさや、人とつながれる居場所の大切さを改めて感じているのではないでしょうか。

 ちなみに緊急事態宣言発出の前から、JOCAにくることを控え始めた高齢者もいて、そのことをJOCAのスタッフにLINEで知らせてくれました。直接会うことはできなくても、そうやってコミュニケーションは取れますし、ここでできたつながりが切れることはありません。

 物理的に何メートル離れて接するという意味でのsocial distancingとは違いますが、ご近所さん同士は常に程よい距離を保ったお付き合いをされています。ベタベタし過ぎるとお互いに疲れてしまう。長い付き合いだけど、相手の家に入ったことがないという方は意外と多いんですよ。つかず離れずの距離を保ちつつ、持ちつ持たれつの関係を維持する。それが息の長いご近所付き合いを続けるコツなんだと思いますし、家の外でそんな関係になれる人が身近にいるっていうのが、安心して暮らせる要素になっていくんだと思います。

——今後のJOCA大阪はどんな活動をされていくのですか。

 2018年7月にオープンし、もうすぐ2年が経ちます。今後は近所付き合いの活発化、住民同士の仲間づくりに注力したい。ここを拠点にして、「自分は○○が得意です」「○○ならできます」という方と「誰かに○○してほしい」という方とをマッチングする仕組みをつくっていきたいと思っています。

(聞き手 芳地隆之)

青空ギターを楽しむ高齢者たち