石破 茂(いしば しげる)さん
1957(昭和32)年生まれ、鳥取県出身。慶應義塾大学法学部卒。1986年衆議院議員に全国最年少で初当選。防衛大臣、農林水産大臣、地方創生・国家戦略特別区域担当大臣などを歴任。

聞き手/松田 智生( 生涯活躍のまち推進協議会理事)
構 成/芳地 隆之(生涯活躍のまち推進協議会事務局長)

東京一極集中モデルの限界

松田 初代地方創生担当大臣を務められた石破さんのもとで、「日本版CCRC ※1 構想有識者会議」が2015年に設置され、私も委員のひとりとして有識者会議に参画しました。日本版CCRC は、「生涯活躍のまち」という名称のもとに、地方創生の主要政策として、また超高齢社会における課題解決モデルとして注目されることになりました。
 生涯活躍のまちについて、推進意向の自治体が、地方創生が始まった2015年の約200から、現在は約400と倍増しました。地方創生の立ち上げから推進力を発揮された石破さんには、これまでの地方創生10年の流れを振り返っていただき、「ここが良かったよ地方創生、ここが課題だよ地方創生、もっとよくなる地方創生」という切り口でお話をお聞きできればと思います。
 ※1 CCRC。健康な時から介護時まで継続的なケアが提供される高齢者の共同体。米国で約2,000カ所、約5兆円の市場規模。
石破 地方創生というのは非常に画期的なプロジェクトだと思います。田中内閣の日本列島改造論、大平内閣の田園都市国家構想、竹下内閣のふるさと創生事業といった、これまでの地方振興政策は人口も経済規模も拡大していくことを前提としたものでした。地方創生は、人口が減り、経済規模が縮小していくなかで、地方のポテンシャルを最大限に引き出し、それを東京一極集中の是正につなげていくという政策です。
 東京一極集中の歴史は明治維新まで遡ります。欧米列強の脅威から日本を守るために、あらゆる機能を東京に集め、国力の増強を図る、地方はそのための人材と物資を輩出する、が国の方針でした。それは第二次世界大戦の敗戦後も変わらず、米国が日本の経済発展をサポートしたことで、1968年には日本はGDPで世界第2位の経済大国になりました。
 ところが平成時代の半ばから、これまで成功してきた東京一極集中の限界が見えてきた。地方の疲弊、人口の減少、災害に対する脆弱性はその表れであり、いまこれらの課題を克服しないと、この国は将来がない。そうした強い危機感の下、地方創生はいままでの地方振興とは違う次元のものとして取り組まれたのです。その際に全国の市町村に伝えたのは、自分たちのポテンシャルは何なのか、それをどうやって引き出せるのか、を自分たちで考えてくれということでした。
松田 自治体が自ら「まち・ひと・しごと創生総合戦略」をつくり、KPIという具体的な数値目標も設定したことで、従来の国頼りの姿勢から脱却した地方の主体性の胎動を感じました。
石破 生涯活躍のまちは当初、日本版CCRCと呼ばれていたわけですが、その原点となる米国のCCRCを訪問した際に、そこにいる高齢者たちがとても幸せそうで、「生まれ変わっても、またここで暮らしたい」と言っていたことに衝撃を受けました。日本にも、富裕層向けの高齢者住宅ではなく、国民年金と厚生年金で暮らしていける高齢者のコミュニティを推進しようとなり、国内で先進的な取り組みのを行っているところを視察しました。そして、社会福祉法人佛子園のShare金沢をはじめ、やねだん※2、十勝バス※3、えちぜん鉄道※4、陣屋※5などの事例を視察し、その事業モデルを学びましたが、成功した理由を聞くと、「税制的な優遇措置を受けられる社会福祉法人だから」とか「カリスマ経営者がいたから」とか、成功したのは特別なケースであり、自分たちにはできない理由が挙げられることに気づきました。地方創生を阻む壁は、こうしたマイナス思考で、自分たちならばどういうことができるか、という発想に向かわないのです。
 ※2 鹿児島県鹿屋市串良町にある柳谷(通称:やねだん)という集落。1996年から柳谷町内会長を務める豊重哲郎さんが「行政に頼らない感動の地域づくり」を掲げ、全員参加のむらおこしを進めている。
 ※3 本社は北海道帯広市。地域の企業や人たちと共創しながら、バスを活用した連携を通じて、複数拠点を発展させるまちづくりを展開。
 ※4 福井県北部の沿線住民を主役とする鉄道として、地域との共生を第一義的に掲げ、サービス業としての鉄道事業をめざしている。
 ※5 本社は神奈川県秦野市。旅館経営の再建を通して地方の観光価値を高め、経済の活性化や雇用増大に貢献。

おねだりでは解決にならない

石破 愛知県長久手市の元市長である吉田一平さんは、社会福祉法人愛知たいようの杜の理事長※6として、生涯活躍のまちのモデルとなった「ゴジカラ村」を立ち上げた方です。雑木林のなか、子どもから高齢者までが交ざって暮らすコミュニティ。長久手市は名古屋のベッドタウンとして人口は増えているけれども、ここだって20~30年後には人口が減っていく、いま手を打たないでどうするという危機感をもって取り組んでおられました。吉田さんはその後、市長に転身するのですが、「わが市役所には『あれ、やってくれ』『これ、やってくれ』という人は来なくていい。『あれ、やらせろ』『これ、やらせろ』という人に来てもらいたい」と言っていました。つまり行政への依存ではなく主体的な行動が必要
ということです。
 喫茶店でモーニングを頼んで――モーニング文化は名古屋で生まれました――そこにたむろし、「市長はだめだ」「市役所もだめだ」「市議会議員は役に立たない」などと文句ばかり言っている高齢者は、寝たきりになって俺のところ(法人)に来ることになる、とも言っていました(笑)。だから長久手市を「“キョウイク”と“キョウヨウ” のまちにする」と。「大学でも設立するのか」と聞けば、「いや、違う。高齢者が『今日、いくところがある』『今日、用事がある』と言えるまちだ」。
 高齢者の役割と居場所をつくるということですね。地域の子どもの見守りをする、独居高齢者の家の電球を替えてあげる、買い物を手伝うなど。それらがビジネスにもつながるかもしれない。優遇措置やカリスマ経営者がいなくてもできることでしょう。
 人口の増減は婚姻率と正比例するので、後者が下がらなければ、前者は減らないという関係にあります。どうしたら地方で結婚できるかをそれぞれの自治体で議論をすることが重要です。私の地元である鳥取県にある14の市町村のうち、婚姻率が一番高いところと一番低いところでは4倍くらい違います。低いところは「うちには大きな工場もないし、場所は県庁所在地から離れているし」と低い理由をいう。ところが、同じような環境でも婚姻率が高いところはある。だから「自分たちで考えよう」と私は言っている。雇用を増やし、住民の所得を伸ばすために考えた結果、「われわれは〇〇の人材が必要だから、中央省庁はそのための施策を講じてほしい」という姿勢が地方創生には必要なのではないでしょうか。
 ※6 現在は大須賀豊博(生涯活躍のまち推進協議会副会長)が理事長を務める。

能登半島に新しいモデルを

松田 約10年前に地方創生が始まった当初は、国と自治体に一体感やすごい熱量が生まれていたと思います。
石破 いまでも連絡をとっている北海道の町村会の会員からは「あのときは楽しかった」といわれます。政府と地方が問題意識を共有して取り組んでいたからでしょう。
 冒頭で「災害に対する脆弱性」と言いましたが、能登半島地震において現出した光景は、「関東大震災の時と何も変わっていなかったのではないか」と思わせるものでした。と同時に、生涯活躍のまちと被災地支援の親和性というか、能登半島の被災地でこそ、みんなで助け合う、新しい地方創生のモデルが生まれるのではないかと思います。
 私は自民党水産総合調査会の会長を務めており、今年の3月に現地を視察した際、能登半島の先端にある珠洲市狼煙町の漁港を訪れました。「狼煙」は狼の糞を燃やして立つ煙は風に左右されないという故事来歴からきている言葉だそうで、「ここが最北端である」ことを示すために狼煙を上げたのが町名の由来という。そうした歴史の面白さが感じられる周遊地がいろいろある。能登半島は温泉も出るし、食べるものは豊かだし、ここで改めて地方創生に取り組めないかと思ったのです。

郷土愛を育む

松田 私は教育も大切だと思っています。昨年、熊本県の南阿蘇に逆参勤交代として首都圏の社会人と短期滞在をしました。2016年に起こった熊本地震の被災地です。地元の中学生との交流の場をもったときに感じたのは、子どもたちの自己肯定感が低いことでした。「この村には何もない」とか、「この村を早く出て東京に行きたい」とか。でも、われわれ大人たちがヨソモノ視点で南阿蘇のよさを語るのを聞いているうちに、彼らの目が輝き始めて郷土愛が生まてくるのを感じました。この交流会がきっかけとなり「進学で一度村を出ても、そこで学んだ知識をもって故郷で働きたい」という生徒が現れ、実際に故郷で就職しました。また先日、高知県須崎市を訪れた際には、地元の高校生が地域の食材を使ったメニューやジビエ料理を考案し、商店街で販売しており、こうした活動が高校生の郷土愛を育んでいることがわかりました。そして高校生の活動に刺激を受けた商店街の高齢者が「自分たちもまだまだ頑張らなくちゃ」と思ったそうです。
石破 私が地方創生に関する講演をする際に、宮崎県小林市の紹介映像について触れるんです。フランス人がまちのよさをフランス語で話している風なのですが、実はよく聞くとフランス語ではなく、地元の西諸弁だったというオチです。当時の肥後市長に聞いたら、「このアイデアは20代の市の職員と小林市の小学生たちが考えた」という。
 大分県竹田市は、キリシタン大名として知られる大友宗麟の領地であったことでも有名で、表向きは神社やお寺なんだけれども、地下に入るとカトリックの礼拝堂があったりする。滝廉太郎の出身地でもあり、『荒城の月』のモデルになった岡城址がある。
「うちのまちって、こんなに素敵なんだ」ということを地元の人にも、訪れる人にも伝えるための竹田市歴史文化館――建築家の隈研吾さんの設計です――の建設に、地方創生大臣だった私は地方創生推進交付金の供出を決めました。
 日本経済が成長と分配の好循環にあった昭和30年代から同40年代と現在の構造は違います。私は昭和40年代に鳥取県の中学校を失業し、慶応義塾高校へ進学しました。その際、同級生たちに「鳥取にはこんな綺麗な海や山があるんでぜひ来てほしい」と言っていました。同50年代に慶応義塾大学に入ったと
きもそう。しかし、いまの子どもたちは「うちのまちに来てね」と言わなくなった。なぜでしょう。
 中学生までに自分のまちがどんなところで、こんな特徴があるといったことを学ばないまま、高校生になって地元を離れ、大学生で東京や大阪に行ってしまったら、故郷に愛着はわきませんよね。地元の自然や文化、食などに誇りを感じる機会が増えれば、大都市の大学で学んだことを卒業後に故郷で活かそうと思う学生が出てくるかもしれません。
松田 同感です。地方創生の要諦は、郷土愛を持つ未来人材育成ですね。

次のキャリアを故郷で

芳地 石破さんは、ご自分の同級生で優秀な者が地元鳥取県に帰ってくる際の就職先は、県庁、市役所、病院(医師)、学校(教師)、地銀と経済の担い手ではなく、サポートする側の人材ばかりと言われていました。
石破 たとえば経団連企業のトップの多くは地方から東京に出てきて成功した方々です。だから優秀な人材は地方から東京を目指すという人生設計になってしまう。でも商社やメーカー、都市銀行、メディアなどに勤めている人がみんな社長や執行役員になれるわでではありません。能力があっても課長どまりで先が見えてしまったというような人もたくさんいるわけで、そういう人に地元に帰って、第二の人生を歩んではどうですかと言いたい。
 私の父は内務・建設官僚、参議院議員を経て、地元鳥取県の知事に就任しました。故郷に戻って、実に楽しそうに仕事をしていました。「お前、よく帰ってきてくれたなあ」と地元が迎えてくれたことも大きかったと思います。
松田 地方創生10年を振り返って、「もっとよくなる地方創生」という視点ではどのようなことをお考えですか。
石破 日本の地方に「うちのまちはだめだ」というような諦め感が漂っているように思えてなりません。先の東京都知事選で、主要候補者はみんな「東京をもっと魅力的に、もっと住みやすく」と訴えていましたが、すでに東京は夢のまちです。若者が住んでみたいと思うのは当たり前でしょう。東京に比べれば、金はない、人はいない、という地方のエクスキューズに対して、それを国が叱りつけるのではなく、「こうやったらどうか」と提案し、一緒にやろうと併走することが大事だと思います。