10月7日(金)のパネルディスカッション「あらゆる世代のWell-being実現に向けて ~地域に寄り添った取り組み」で行われた2人の対談内容の書き起こしを掲載します。ごちゃまぜと遊びはとても相性がいいことがわかるお話でした(モデレーターは日経BP総合研究所 メディカル・ヘルスラボの庄子育子所長)。

(庄子)まずは組織の概要を紹介いただきたい。

(雄谷)当法人は設立して62年目となる。「ごちゃまぜ」をキーワードに、子ども、若者、高齢者、障害のある人、ない人、認知症の人、そうでない人、日本人、外国人が一緒に暮らすコミュニティづくりに取り組んでいる。人と人がかかわっていくとどうなるのか。「ごちゃまぜ」の意味に気づいたのは2008年、石川県小松市にある廃寺となった西圓寺(1473年に建立)を再生すべく、温泉を掘り、食事処を開業し、そこに障害者の就労継続支援や高齢者のデイサービスなどを組み込んだ事業を始めたときだ。いろいろな人が西圓寺を使うようになると、地域が元気になっていったのである。減少が続いていた人口は増加に転じた。

その後、JR美川駅の指定管理を受け、駅舎のなかでカフェを開店した。以前は夜になると、いわゆるヤンキーのたまり場になっていたのだが、そこで障害者が掃除を始め、カフェで受験生が勉強するようになり、絵画展などが開かれることで変わっていったのである。同駅近くにはショッピングモールなどないにもかかわらず、駅の利用者は増えている。金沢市にあるShare金沢は障害者、高齢者、学生の住まい、さらにはレストランやライブハウス、オフィスなども入っていて、近所の小学校の通学路にもなっている。佛子園の本部があるB’s行善寺も多機能型だ。輪島市では町中に点在する空き家を改修して、温泉、食事処、ウェルネス、ゲストハウスなどを展開。同市の人口は4万8,000人をピークに現在は2万6,000人にまで減少していたが、真っ暗だったまちなかに明かりが灯り、人の行き来が盛んになった。

(徳本)弊社は大正5年に敦賀で創業した。幼稚園というものが世の中になかった時代に、早翠(さきどり)という園児を預かる場を日本で初めてつくったのが始まりである。終戦後はすべて焼失。大陸からの引揚者や戦争未亡人の働く場として再スタートし、現在は約1万坪の敦賀本社でものづくりを行い、東京本社も設立。幼稚園、保育園のほか、子どもの集まる施設向けに遊具、教材や園児服を提供するほか、子どもの環境についてトータルな提案を行っている。

弊社のスローガンは「未来は遊びのなかに」。偉大な発明や世界を変えた公式も遊びのなかから生まれた。私たちのつくる遊具は単なる滑り台やブランコではなく、子どもが自ら工夫して遊べるようになっている。園児服は表面の下に刺繡を施した布を織り込み、何かいいことがあったら表面を一部切り取ると、それが見えるようにした。入園時には同じでも卒園時には個性がでてくるのである。富山美術館の屋上にはオノマトペ(「ぐるぐる」「ひそひそ」などの擬音語・擬態語)で楽しく使える遊具を設置した。もっと美術館に親しんでもらえるよう、デザイナーの佐藤卓さんのアイデアから生まれたものだ。佐藤さんも加わって、遊びそのものを研究し、それを現場で実践しながら社会の課題解決を目指す集団としてPLAY DESIGN LABを立ち上げている。

(庄子)雄谷さんは「ごちゃまぜ」、徳本さんは「遊び」というキーワードを使っている。人が集まる仕組みはどのようなものなのか。

(雄谷)経済が右肩上がりで人口も増えている時代は高齢者、障害者、子どものサポートは縦割りでもよかった。ところが地域の力が衰え、そこにコロナ禍が加わることで、それが不可能になった。かつては人の集まる場であったお寺や神社も、その役割を果たせなくなっており、いろいろ人がかかわれる場所とはどんなところかを考えている。

(徳本)京都大学前総長の山極壽一氏は「人類は、移動する、集まる、対話することで進歩してきた」という。『幼児教育の経済学』の著者、ジェームス・J・ヘックマンは幼稚園、保育園に通う子どもと家庭のなかで育てられた子どもの比較研究の結果を発表している。60年前に行った、比較的所得が低い、IQも同じレベルの家庭を対象とした調査なのだが、幼稚園、保育園に通っていた子どもの方が学力が高く、学校を中退することも少ない。将来の所得も高く、生活保護の受給率は低かった。これは幼稚園や保育園で(遊びを通して)培われたコミュニケーション能力や自己肯定感によるものと分析されている。

(雄谷)私は金沢大学で公衆衛生学を教えているのだが、人は人とかかわるだけで健康になり、一緒に入ると何となく助け合うようになる。データによると、生きがいのある人とない人の生存率について、前者は3倍上がっている。人生の目的を感じている人と感じてない人の要介護リスクについて、後者は2倍高くなっている。さらに「笑い」。よく笑う人、たまに笑う人、ほとんど笑わない人に分けると、笑わない人はよく笑う人、たまに笑う人より死亡率が2倍上がる。

笑いには、笑う力、笑われる力、笑わせる力があり、うち笑われる力とは何かというと、人と違うことをやると笑われるわけで、それによって己を知る=メタ認知ができるということだ。学校で笑われるというだけでなく、地域の中で高齢者や障害者と交流しながら笑われることで、自分を客観的に見ることができるようになっていくのである。

(徳本)遊びは「遊べ」といわれてするものではない。夢中になることだ。言語学者・白川静の著書『文字逍遥』の巻頭「遊学論」に遊ぶ者は神という文章がある。それも夢中の状態を示しているのだろう。白川は遊びを「友だちと一体、自然と一体、宇宙と一体になること」と書いている。

円柱型の空間でゴンドラに乗った猫と自分で歩けるようしている猫を移動させるという実験がある。2匹とも視覚から得られる情報は同じだが、装置を外した後に障害をよけて動けるのは後者の猫だった。身体を動かさないと自分で判断ができないのだ。身体を動かすことも遊びの重要な要素である。

日本は先進国の中でも子供にかける予算が少ない(高齢者向けは大きい)。しかし、子どもはこれから社会をつくっていく存在だ。子どもたちにアプローチすることで子どもたちが変われば、未来も変わる。われわれが子どもの環境を重視するのは、よりよい社会をつくるための近道だからである。

人間には、認知能力と非認知能力がある。前者はいわゆる「読み・書き・そろばん」。教育によって得られる能力であり、経済が右肩上がりの時代、上位にキャッチアップするのに適したものといえるだろう。一方、後者は、将来予測の難しい今のような時代に、たった一人でも歩みを止めることなく、現状を変えていこうとする能力である。これは学校教育だけでなく、人との関係性という環境のなかで育まれるものだ。

(庄子)佛子園のビデオを見た際、スタッフが「自分が利用者さんを支えているつもりが、実は支えられていた」と言っている姿が印象的だった。

(雄谷)福祉の現場で離職の原因となるのは人間関係であることが多いのだが、地域との結びつきの薄い施設でも離職率は高くなる傾向にある。たとえば悩みを抱えて暗い表情をしている職員が、地域の人に「命をとられるわけでもないんだから」と声をかけられる。すると元気を取り戻す。同じことを職場の同僚に言われても効果はない。ニュートラルな立場の人に言われるから気持ちが軽くなるのだ。障害のある人に「元気出してね」と言われて気持ちが回復するのは、職員と利用者さんの関係が「与える側と与えられる側」と固定したものではないからである。経済の話でいえば、何かをつくって人を集めて売るというのは違う気がする。お寺や神社の行事、お祭りに人が集まれば、一緒にご飯も食べる。自然と消費が生まれるというのが本来あるべき姿なのではないか。

(徳本)「消費者」という言葉に違和感がある。そこにあるものを消費するだけの人というようなイメージ。人が集まるのはそこで楽しむためで、消費だけが目的ではない。

(庄子)人が寛容さを養うためにはどうしたらいいのか。自分と違う人とは交わらず、同じようなグループでいたいという人も少なくない。純粋培養のような教育のありかたについてはどう思うか。

(徳本)付属幼稚園から大学までエスカレーターで上がる人が、社会に出て初めて挫折を味わうと、社会復帰が難しくなることがある。子どもの頃に夢中で遊ぶことが大人になってブレークスルーできる力となる。弊社のPLAY DESIGN LABに集まるトップクリエーターが揃って言うのは、幼児期の体験が今の自分をつくっているということ。その思いがあるからジャクエツの研究に参画してくれている。

(雄谷)障害者が大声を出す、認知症の高齢者が徘徊する。それには必ず理由がある。そしてその行動は人に危害を与えるものではない。このことを周囲がわかっていれば、子どもに「どうしてあのお兄ちゃんは大きな声を出すの?」と聞かれて、「理由があるんだけれども、それをうまく伝えられないんだよ」と答えられる。子どもは「どうしてだろう?」と考える。そして世の中にはいろいろな人がいることを理解する。それが大事。ちなみに佛子園の施設で大声を聞いて振り返るのは視察に来ている人。地域の人はわかっているから普通にしている。

(庄子)日本ならではのWell-beingとは。

(徳本)2022年の出生者数は80万人を切るといわれているなか、幼稚園や保育園を新たにつくるのではなく、既存のものをうまく活用すべきだ。8,000カ所強あるといわれている公立の保育所の運営が民間に委託される流れがあるが、効率性を求めることが理由であれば、社会にとっていいことではない。地域に開かれた、障害のある人も、高齢者も、あるいは若者でも主婦でも使えるような多機能・複合型が望ましい。

(雄谷)今日のパネルディスカッションのタイトルに「地域に寄り添った取り組み」とあるが、むしろ「寄り合う」ではないか。先ほど「笑い」について話したが、「笑い合う」。あるいは看取る、看取られるではなく、「看取り合う」。日常生活から死が遠ざけられている世の中で、子どもたちが人の死を体験することは、人とのつながりを確かめるいい機会。それによって生きる力を得ることができる。一人が好きでもいいけれど、人はひとりで電気もつくれなければ、食べるものもつくれない。つまり一人では生きていけないわけで、だからこそ「合う」を大切にしたい。