一番変わったのはスタッフ間の距離、互いへの関心が強まった

青年海外協力協会(JOCA)が本部を東京に構えていた頃、スタッフ間に知らず知らずのうちにできていた垣根が、駒ヶ根に移転したことで低くなっていった。そして、ライフワークバランスというよりも、“ライフ”と“ワーク”が限りなく近づいてきた―スタッフの方々の話を聞いていると、そんな印象を受ける。それはどうしてか。多くの企業の方々にも読んでいただきたい。社員のパフォーマンスの向上にも大いに参考になると思う。

——みなさんは派遣先の任地でどのような活動をされてきたのですか。

鈴木 中南米グアテマラの地方の役場を拠点に47ある村の住民とともに、収入源を増やすためのしごとづくりや商品開発に従事しました。国内のNPOを村に招いての農業研修を開くなど、コーディネーター役を務めたこともあります。

新井 アフリカ西部セネガルの漁村の女性たちを対象に生活の向上、現金収入を上げるためのサポートを行っていました。村の男性が獲ってきた魚を生のまま内陸部に運ぶこともあるのですが、冷凍設備が十分ではないので、港で燻製にして仲買人に売ることも多く、その作業を女性が担っていたのです。

大津 私はこれからです。国際協力の分野で働くことが希望でした。小学生4年生の頃、元青年海外協力隊員でガーナに派遣された人が小学校に来て、世界にはいろいろな国があり、いろいろな人がいることを教えてくれた。それがきっかけ。大学では国際関係における地域開発を専攻し、卒業論文はフェアトレードをテーマにしました。少数民族、障がい者、女性などマイノリティや社会的弱者といわれる方々に対する支援をしたいと思っています。

山本 オセアニア・フィジーのエネルギー統計を担当しました。私は当時、大学卒業して3年くらい。毎日、数字を集計し、加工するのが業務ですが、周りはベテランの国家公務員ばかり。自分は大学で得た知識だけでやっていたという感じでした。青年海外協力隊と聞くと、アフリカ大陸や中南米をイメージするでしょうが、たとえば、フィジーは大洋州地域の石油等の経由地になっていますので、周辺国とのエネルギーの出入りを把握する必要があります。私はそれを数値化・グラフ化する仕事を担当していました。

山本哲司(やまもとてつじ) 1992~1994年、オセアニアのフィジーに赴任。職種は統計。帰国後は一般企業に就職。NGOやコンサルティング会社での勤務を経て、シニア海外ボランティアとしてザンビア保健省で統計作成業務。現在は総務部総務課勤務。

——JOCAが1年前(2017年6月)、本部を東京の半蔵門から長野の駒ヶ根への移転を決定したとき、どう思いましたか。

鈴木 私たちには「協力隊で得た経験や知識を通して、日本または世界へ貢献したい」という思いが強く、それが「日本のために本気で地方創生に取り組む」につながったのだと思います。いきなりで驚いたものの、去年のタイミングでしか移転を決定できなかったのではないでしょうか。

新井 移転が決まったときは東京にいて、「どこにいくんだろう?」と。数年前にも移転の話はあったのですが、そのときは、関東近隣でという話でした。それが駒ヶ根だと聞いて、JOCAの覚悟が伝わったと同時に、官公庁からの委託業務が多かったこれまでの仕事が変っていくなかで、自分は何ができるのかが問われると思いました。

山本 自分が駒ヶ根に配属が決まったとき、かつて青年海外協力隊で赴任するときの不安と期待に入り混じったような気持ちを思い出しました。そもそも協力隊になったのは自分の知らない世界のなかに入ってみたかったからで、いまは「いろいろ見てやろう」という気持ちです。

——大津さんはまだ入職したばかりでしたね。

大津 自分はコミュニティのなかに入っていきたいと思っていたのですが、働く=東京で、というイメージがありました。

鈴木 JOCAには5年ほど前まで正職員が少なく、ほとんどが契約職員でした。後者は最長で3年間。満期を迎えて、まだ働きたければ試験を受け、合格したら延長という形態だったのです。したがってこれまでは中途採用が中心であり、新卒は今年度が初めて。彼女(大津)は採用された5名のうちの1人。キャリアパスとして3年間国内勤務の後、JOCA所属のまま青年海外協力隊として海外に赴任し、帰国後はその経験や知識を国内で生かしてもらいます。

鈴木亜依子(すずきあいこ) 2007〜2009年、中南米グアテマラ共和国に赴任。職種は村落開発普及委員。帰国後は駒ヶ根青年海外協力隊訓練所で5年ほど勤務。現在は主に東京支所で青年海外協力隊の支援業務等に従事。

——青年海外協力隊と地域おこし協力隊がセットになったイメージがあります。

鈴木 JOCAの強みは人材なんです。ひとり一人の個性だったり、考え方だったり、経験だったり。でも、半蔵門(東京)にいるときは互いの内面はよくわからなかった。駒ヶ根に来たことで、個々の動きがよく見えて、「(彼、彼女には)こんな一面があるんだ」とか「そんなこと考えていたんだ」という気づきが増えました。

——それはどうして?

新井 東京では、個人として仕事があって、家族がいて、と各々がてんでバラバラでした。ところが駒ヶ根に来てからは、スタッフはほぼ市内に住んでいるので、東京ではありえなかった職員の配偶者同士のつながりができたことも大きいのではないでしょうか。

鈴木 職場にスタッフの子どもが来ることもあるので、スタッフは互いの子どもの名前も覚えますし、私なんか、よその子だって叱ったりしますから。途上国では職場に子どもがいて当たり前なんです。おっぱいをあげながら仕事をしている女性がいたり。そういう環境に少し近くなったのかもしれません。

大津 犬もときどき(オフィスに)舞い込んできますよ(笑)。

鈴木 ワークスタイル≒ライフスタイルみたいな感じでしょうか。オンとオフのスイッチをいちいち切り替えなくていいから、ストレスも少ない。みんなで子どもをみる環境があるので、女性は子どもを生みやすいと思います。

——東京は、中心部=オフィス、郊外=マイホームのような機能でエリアが分けられている面があり、それがまちを面白くなくしている気がします。ところで、青年海外協力隊経験者から例外なく聞くことですが、使命感を胸に途上国へ赴き、情熱を持って住民の方々を指導しているつもりが、気がつくと、住民が誰もついて来なくて愕然とすると。そういう経験はみなさんもお持ちですか。

鈴木 誰もが通る道です。そこでどん底に突き落とされる(笑)。私は赴任した日に村を訪れたら、住民が蜘蛛の子を散らすようにいなくなりました。事前に村長に連絡をしなかったからなのですが、背後からゴミを投げられたんです。グアテマラは内戦が長く続いたため、多くの方が家族を亡くしている。そのためよそ者への警戒心が強いのですが、ショックでした。その後、市長から村長へ連絡をしてもらい、あらためて出向いたところ歓迎してもらいました。

新井 私は魚の加工の技術指導が業務でしたが、その知識も技術もなかったので、最初の1年間は女性たちと一緒に魚を加工して売っていました。言葉も現地語なので、当初はコミュニケーションをとれるレベルにはなく、少しずつ覚えながら地域に入っていきました。まずは自分が何をしに来たのかを理解してもらわなくはなりません。ボランティアといってもわかりませんので、魚の燻製づくりと語学を学びに来たと言っていました。

山本 現地へ行くと住民がわっと寄ってきて、彼らをよき方向へと導いていく、というイメージを(青年海外協力隊は)抱いているのですが、実際に行くと、現実はぜんぜん違うことを思い知らされます。

鈴木 自分は何ができるんだろう? そんな無力感に苛まれますが、そこから這い上がってくるから強くもなるんです。

新井 隊員の「やる気曲線」というのがあって、その波がみんなほとんど同じ。最初は「やるぞ!」と意気込んでいるので最高値、そして半年後には最底値(笑)。そこから這い上がるきっかけは人それぞれですが、2年目からは安定飛行に入る。

新井大介(あらいだいすけ) 2008〜2010年、アフリカ西部セネガルに赴任。職種は村落開発普及委員。帰国後は東京本部で青年海外協力隊が作成する報告書(赴任期間内に5回作成)の取りまとめ業務。4年間の駒ヶ根青年海外協力隊訓練所勤務後、現在は総務部経理担当。

——JOCAの雄谷会長は、そうした経験から「いわない技術、やらない技術」を会得すると言われていますが、地元の方々が自主的に動くようにする黒子役を演じるということですか?

山本 そうですが、これを実現するのはすごく難しい。結局、我慢できずに、自分で動いてしまうことになりがちなのです。

新井 私がセネガルの港町にいたとき、通りのゴミがひどかったんです。割れたガラスのビンなどもあるので、裸足で走っている子どもにはとても危ない。でも初めは何も言いませんでした。拾ったゴミをどこへ持っていくのか、その場所がなかったですし、いきなりよそ者が人間関係もできていないなか、「ゴミを拾おう」と言っても、誰も聞かないと思ったからです。2年目に入ったあるとき、子どもが怪我した際に提案したら、みんながゴミを拾い始め、集めたゴミを焼却しました。

——もうひとつは「人を集める技術」。これについてはいかがですか?

大津 技術と直接関係ないかもしれませんが、私はこちらに移住してから、すれ違う人全員に挨拶をしています。それが楽しくて。声をかけると、相手の顔がぱっと明るくなるんです。朝の通勤時に顔を合わせる人はほぼ同じなので、井戸端会議に参加したり、駅前のスーパーで働いている女性と仲良くなったり、人とのつながりを感じるようになっています。

新井 隊員には「挨拶をする文化」が浸透しているので、人が何人もいると、数百メートルを進むのにすごく時間がかかる(笑)。

——普段の挨拶を欠かさない元隊員たちが30人移住したわけですから、まちにとっては大きな変化ですよね。

鈴木 これから駒ヶ根市のために何かお役に立てれば本望ですし、逆に駒ヶ根に来させてもらったお蔭で、当職員のハッピー度が増しました。生き生きした笑顔が増えました。ありがとうございます!

——みなさん、人と仲良くなるのは得意ですものね。

鈴木 人の懐に入るのは得意かもしれません。人と接していると、この人とはどのような距離感で接するのがいいかもわかりますし。

山本 距離感でいえば、活動の場を途上国から日本国内に移す場合、言葉(日本語)が通じるがゆえに難しいという面もあると思います。その地に家を建て、家族を持って暮らすことで地域と関わりが深くなるけれども、関係が密になる分、難しくなるところもある。まちづくりに関わる際には適度な距離感が必要なのかもしれません。

新井 日本の社会は人と人とのつながり方が「ぶつ切り」の感じがします。アパートに住んでいても、隣がどんな人かもわかりませんし。セネガルでは、通りすがりの人に子どもを預けて、おかあさんが買い物に行ったりするのが普通でした。

山本 日本の学校では「知らない人に声をかけられたら不審者と思え」と言われるくらいですからね。

——日常で地元の方々と接するのは、たとえばどういうときですか。

山本 お祭りの実行委員とか。

大津 お祭りと習い事はとても多いですね。自宅にはまちのサークル一覧表が届きました。私は駒ヶ根太鼓のチームに入れてもらいました(本部移転のオープニング式典で披露)。和太鼓を習うことで地元の人との関係が広がっています。

大津萌(おおつもえ) 2018年4月に新卒で採用。現在は国際協力課に所属。短期のボランティア(1カ月〜1年未満)の合同研修を担当。

新井 私は野球チームに所属しています。練習や試合は毎朝4時45分から(笑)。駒ヶ根市の各地区にチームがあってリーグ戦を行うのですが、みんな出勤前あるいは農作業の前にプレーするんです。ちなみに私の妻は竹細工を習いに地元の高齢者のところに行っています。

山本 職場は自宅から自転車で5分。東京のように1時間も通勤にかかることはありません。ちなみにいまは毎朝5時半には起床します。6時には家の前の畑で地元の方が農作業をされていますし、起きるのが早くなりましたね。

——雄谷会長が「人間の頭が一番働くのは朝の6〜9時くらい。その時間帯にいいアイデアが浮かぶことが多いけれど、首都圏に住むサラリーマンの多くは満員電車に揺られている。もったいない」と言われていたことを思い出しました。最後にこちらでやりたいことを教えてください。

鈴木 JOCAという組織は外からみるとわかりづらいので、私たちの活動をもっと知ってもらう努力をしなくてはと思います。

新井 せっかくこんないい環境にいるので、4歳になる息子には、いろいろな大人と接してほしい。自分の親以外の人から学ぶ機会があるのはいいことなので。

山本 私はまだ駒ヶ根ライフをまだエンジョイできないので、これからいろいろな楽しみを見つけたいです。

大津 駒ヶ根市内には若い人があまり歩いていないので、彼らのたまり場をつくりたい。「将来どう思っているの?」とか「駒ヶ根をどんなまちにしたいの?」とか、いろいろな話ができるような。JOCA本部がそんな場になればと思っています。外でごはんを食べていたら、隣の若い人たちが話しているのが聞こえたんです。「あれ(JOCA本部の建物)、おしゃれだけど、何だろうね?」とか、「Wi−Fiあるのかな」とか(笑)。

新井 ぼくらが「来てね」というより、そういうほうが効果的だよね。

——本部が移転したことによって皆さんがいきいきしているのが、お話を聞いていて伝わってきました。今日はどうもありがとうございました。

(聞き手:芳地隆之)