経済産業省・中小企業庁が「中小企業・小規模事業者の事業承継問題を放置すると、廃業の急増により2025年頃までの10年間累計で約650万人の雇用と約22兆円の国内総生産(GDP)を失う可能性がある」との試算を発表したのは2017年9月のことだ。「特に地方の市町村での休廃業リスクが高まっている。今後10年で平均引退年齢の70歳を超える経営者は全体の6割超に当たる約245万人に達するが、半数の約127万人は後継者が決まっていない」という。団塊の世代が全員、後期高齢者になることを指して「2025年問題」なる言葉が生まれたが、こちらはもうひとつの「2025年問題」といえるだろう。
試算の発表から3年が経った現在、少子高齢化は止まらず、後継者問題で廃業を選ばざるをえないケースが増えているなか、青年海外協力協会(JOCA)南部支所(代表は亀山明生さん)は、担い手不足で事業の継続が困難になったところに、地域の障害者とともに入っていって、事業を再生させている。就労継続支援による訓練給付金等を収入としながら、廃業した豆腐店を再び立ち上げ、新型コロナウイルス感染の広がりに対しては、フェイスシールドやコロナ防護服の制作にも取り組み始めた。支える側が支えられる側に、支えられる側が支える側に。JOCA南部の試みは、お互いがかけがえのない存在であることを、事業を通して私たちに教えてくれる。
事業承継はSDGs―こう言ったのは大分県別府市の老舗温泉を曾おじいさんから承継した田中仁社長だ。就任直後に先代から「次の世代にきちんとバトンを渡す使命がある」と言われ、悩んだ末にたどり着いた考え方だという。会社は社会の公器であるのだから、経営者が勝手に浪費してはいけない。後継者にとって引き受けやすい状態にするのが現経営者の責務というのである。「私は会社を預かっている身」と田中社長は強調していた。
しかしながら、新型コロナウイルスの感染拡大による経済活動の停滞によって、体力のない中小の介護事業者は大手に吸収合併されていくのではないか。そう予測するのは―本特集には組み入れていないが―株式会社進幸代表取締役の渡邊典子さんだ。帝国データバンクによると、8月20日現在、「新型コロナウイルス関連倒産」(法人および個人事業主)は全国で450件が判明している。渡邊さんは、2000年に介護保険制度が始まるのを機に、義理のお父様が設立したものの、しばらく休眠中だった会社を承継し、高齢者や障害者の介護事業に参入した。会社を新たに生まれ変わらせた例としても注目したい。
事業承継の「2025年問題」の解決は簡単ではないだろう。しかし、現場に目を転じると、誰にでも居場所と役割があるコミュニティという「生涯活躍のまち」の考え方のなかに手がかりがある。そのことを本特集から読み取っていただければ幸いである。


(かめやま・あきお)平成12(2000)年度2次隊として青年海外協力隊に参加(モンゴル派遣。職種:バドミントン)。帰国後に再びモンゴルに戻り、隊員時代のモンゴル人の友人と起業等を経て、2009年に青年海外協力協会(JOCA)に入職。本部(当時東京)勤務の後、東日本大震災の復興支援に携わり、2016年から南部町へ異動し現職。

見知らぬ土地に入って、そこに住む人と触れ合い、地域の慣習を理解し、仲間となっていく。青年海外協力隊の経験を生かし、住民の方々の居場所づくりに取り組み始めた亀山さんに見えてきたのが、担い手不足という地域の課題でした。それをどうやって解決していくか。実践したのは亀山さんほかスタッフならびに就労支援事業所※に通う利用者さんたち。障害のある方々が困っている地域を助けている。そんな「人は支える側にもなるし、支えられる側にもなる」という発想が、日本の多くの地域が抱える事業承継という悩みを解消する手掛かりになるのではないでしょうか。

※一般的な事業所に雇用されることが困難な障害者に向けて就労の機会を提供するとともに、生涯活動その他の活動の機会の提供を通じて、その知識および能力向上のために必要な訓練を行う事業のことを「就労支援継続事業」といい、雇用契約を結んで利用する「A型」と、雇用契約を結ばずに利用する「B型」とがある。

――公益社団法人青年海外協力協会(JOCA)が鳥取県西伯郡南部町に支所を立ち上げたのは2016年とのことですが、亀山さんは設立当初から携われていたのですか。

 はい、最初はひとりで地域に入りました。そのため地元の方からは「ぼっち」「ぼっち」(一人ぼっち)とからかわれていました。

――そもそも南部町にJOCAが進出したきっかけは?

 当時の坂本昭文前町長に「帰国した青年海外協力隊員にとっての活躍の場を南部町につくりたい」という強い思いがあったことが大きな理由です。
 南部町支所を設立した翌2017年にJOCAは南部町の「生涯活躍のまち」の地域再生推進法人に指定され、私たちがめざす、子どもから高齢者まで、障害のある人もない人も、日本国籍の人も外国籍の人も互いに支えあいながら暮らすことのできる「ごちゃまぜ」コミュニティへと発展していきました。

南部町全景

――「ぼっち」で飛び込んだとのことですが、人口1万人強の小さな南部町で、地域に溶け込むのにご苦労はありませんでしたか。

 南部町に異動になる前は、岩手県の復興支援に携わっていました。被災後の急性期、津波によって様変わりした地域に入ったので、現地の方々は「JOCA」という組織は知らなくても、「支援に来てくれた団体ね、ありがとう」という感じで、こちらを快く受け入れてくれました。一方、ここ(南部町)では、「ん? 地方創生? 別にわしら困っとらんで」みたいな感じで、取りつく島がなく、結構困りました(笑)。

――どのように地域に溶け込んでいかれたのですか。

 人間関係をつくっていくためにあらゆる地元の行事に子どもと参加しました。男ひとりで参加してもなかなか相手に心を開いてもらえないのですが、息子と一緒に出かけると、教育熱心な父親と映ったようで小学校のPTAに誘われました。「転入したらPTAに入るのがここの地元ルールよ」なんて悪代官のようなママさんに騙されて――冗談です(笑)。いまではとてもよい友だちですから――PTAに入りました。結果としてこれがよくて、同年代の知り合いが一気に増えました。

――そうしながら住民のひとりとして地域で暮らすなかで、担い手不足という南部町の問題に取り組まれたのですね。事業の継続が難しくなった地元の豆腐屋さんを、障害者の就労継続支援A型として承継して、いまでは隣村の小学校にも豆腐を卸しているとお聞きしています。

 後継者がいないという問題は、南部町に限らず、いわゆる「地方」ではどこでも深刻だと思います。JOCA南部はA型事業所を運営するために収入になる仕事を必死に探していました。そのためにあちこちの会議などに顔を出していたら、「JOCAで豆腐をつくらんかや?」と声をかけていただきました。詳しく聞けば、「町内からの供給がなくなり、わざわざ車で往復3時間かけて鳥取市の業者さんから取り寄せている」と。ならば、継続が難しくなった事業を、私たち仲間(A型事業所に通う利用者さん)といっしょに盛り上げていこうとなりました。そして、「どうせやるなら、仲間たちが誇れる本物の豆腐をつくろう」ということで、島根県から東京の銀座などに豆腐を卸している方の所で職員が修行をしました。

柿の収穫(生産者が高齢化により作業できなくなっている理由のひとつが高所作業)

――JOCA南部は豆腐だけではなく、高齢化で担い手が不足している柿農家のサポートもされているそうですね。果樹農家を手伝いながら技術を教わり、その対価として得た柿を加工して、米子鬼太郎空港で販売する予定とか。

 当初は柿園を借りて、すべて自分たちでやっていました。ところが、「雑草が生い茂れば虫が増える、虫が増えれば柿にもよくない、隣の柿園にも迷惑なので草刈りへ」という流れの繰り返しで、ちっとも面白くない。その過程で地域とまったく関われなかったからでしょう。地域から孤立していく感じでした。
 そこで発想を変えて、「困っている生産者さんのお手伝いに入っていく」という方針に切り替えました。実際、高齢化による担い手不足でお困りの園主は少なくありません。しかも、廃業すると、柿園が荒れて近隣に迷惑をかけることになるので、柿の木をすべて伐ってしまわなければならない。でも「親から譲り受けた木を残したいのだけれど」と悩まれている農家さんもいる。こういうところに私たちが利用者さんたちと一緒になって入っていき、農家さんを支える側に回ることにしました。そうすれば地域ともつながるだろうと。おかげさまで、いまでは作業をしている私たちに、地域の方々がアイスなどの差し入れをしてくださいます。

――今回のコロナ禍においては、フェイスシールドも制作されるなど、徹底して住民の方々のニーズに沿った活動を、亀山さんは「福祉の力でそっと解決する」と言われています。利用者さんと一緒に仕事を行う際に注意すること、もしくは大事にしていることは何ですか。

 職員には、常々「品格」と言っています。障害者の就労支援員として、口では偉そうにものを言うけれども、行動が伴わないなんてかっこ悪いですし、利用者さんだけでなく、誰に対しても説得力がありません。一言一句、一挙手一投足を研ぎ澄ませていかないと品の格は上がっていかないと思います。私たちの事業に関わってくださる方々に「なんかJOCAの人たちって、かっこいいな~」と思ってもらえるよう、日々学び、成長していきたいです。

――亀山さんは「地域の課題のあるところこそが“生涯協力隊”の居場所」ともおっしゃいます。JOCAのスタッフは青年海外協力隊のOB・OGが中心で、亀山さんご自身はモンゴルに派遣されていたとお聞きしています。それに対して「生涯協力隊」とはどういう組織で、どんな目的を担うのですか? JOCA南部が卸している豆腐も「協力隊豆腐」と呼ばれていますが、そのネーミングの由来も教えてください。

 「生涯協力隊」とはJOCAの会長である雄谷良成の言葉で、「青年海外協力隊で2年間途上国の支援で終わってはいけない。その経験とノウハウを帰国後は国内に還元するまでが本来の任務である」という考え方です。実際、2年間に及ぶ途上国での活動は「支援する」ことと同じくらい「学ぶ」こともたくさんあるので、その恩返しを、人生を通して行っていく。「青年海外協力隊」隊員としての経験は、あくまで「生涯協力隊」隊員としての一通過点に過ぎません。また、JOCA南部事務所の職員には青年海外協力隊経験者ではない者の方が多く、そんなわれわれがつくった豆腐だから「協力隊豆腐」となりました。

仲間(A型事業所に通う利用者)と力を合わせてつくった豆腐が店頭に並ぶ

――これまで地域に寄り添うことで事業を行ってこられたと思いますが、コロナ禍における3密回避で、地域の方々が集まる機会は減っていると思います。とくに独居の高齢者の方が孤立しないようにするためにはどうしたことが必要だと思われますか。

 買い物に自力で行くことのできない方々向けの買い物支援を就労継続支援事業で実施していこうと考えています。それは同時に独居の高齢者の見守りの役割も果たすかもしれません。こうした活動を通して、地域に貢献していけたらと考えています。

――JOCA南部は南部町に新たな拠点を立ち上げるべく準備をされています。どのような場が生まれるのでしょうか。

 住民の方々にとって自宅でも職場でもない第3の場所=「サードプレイス」といえばいいでしょうか。すでに温泉の掘削も終え、食事処もつくる予定ですが、とくに用事がなくても、ふらっと立ち寄ると、そこに顔見知りがいて、何気ない会話ができる、とびきり居心地のいい空間。そんな居場所が生まれるはずです。

後継者が受け取りやすいようにバトンを渡す〜別府市ひょうたん温泉社長 田中 仁さん

向かって左が田中社長、右が于涛(うとう)主任

大分県別府市屈指の温泉街・鉄輪(かんなわ)温泉地区にある、源泉100%かけ流し日帰り温泉「ひょうたん温泉」は大正11年(1922年)に創業されました。40代半ばで同社に転職し、もうすぐ100周年を迎える同社の経営を、田中さんが母方の曾おじいさんから引き継いだのは2017年。大阪で生まれ育ち、九州で大学時代を過ごして、東京での勤務経験もある田中さんがどうして老舗温泉を継いだのか、そして次世代にどう引き継いでいこうとしているのか。事業承継について欠かせない視点を語っていただきました。(文中敬称略)

「ひょうたん温泉」は大正11年(1922年)に創業されました。40代半ばで同社に転職し、もうすぐ100周年を迎える同社の経営を、田中さんが母方の曾おじいさんから引き継いだのは2017年。大阪で生まれ育ち、九州で大学時代を過ごして、東京での勤務経験もある田中さんがどうして老舗温泉を継いだのか、そして次世代にどう引き継いでいこうとしているのか。事業承継について欠かせない視点を語っていただきました。(文中敬称略)

――田中さんはひょうたん温泉の5代目・社長に就任するまで、様々な職をご経験されているそうですね。

 職にこだわりがないというか、東京の製薬会社に勤務した後、アルバイトをいくつも掛け持ちしたり、料理専門学校の女子寮の寮長を務めたりしていました。

――大阪では運輸会社のトラック運転手のほか、障害者の介護福祉や生活困窮者の支援にも携わっていたとか。職種は違いますが、田中さんのなかで、それらの職に通底するものはあるのですか。

 家族(妻と一男二女)を食べさせるのに必死だったということで、何か特別な考えがあったわけではありません。ただ、向かった先が常に新しい分野なので、そこで働く人々をしっかり観察して、常に他の社員より多く仕事をするように心がけてきました。

――そうしたなかでお母様の実家である「ひょうたん温泉」の売却の話があったのですね。

 母に呼ばれて実家(大阪)に行ったら、後継者がいないので、もう続けていけないと聞かされました。そのとき頭に浮かんだのが、「今いる従業員の方々はどうなるのか?」「こういうことを一族だけで決めていいのか」という疑問です。そして、売却の理由が「後継者がいない」ということであるならば、自分が継ぐと申し出たのです。

――奥様は反対しませんでしたか。

 それ以前にも「継ぎたい」という話をしたことはありました。でも、子どもが幼かったし、大阪での生活も安定していたので、あきらめたという経緯があったのですが、子どもたちも独立したこともあり、今回、妻は賛成してくれました。そこで「ひょうたん温泉」の役員に諮ってもらい、了承を得て2010年に入社し、社長に就任したのが2017年でした。

日帰り温泉だが、旅館のような洒落た入り口

――就任して間もないころから事業の承継について考えておられたのですか。

 それはSDGsの勉強をしたからだと思います。自分たちの周りにある資源は自分たちだけのものではないから、好き勝手に使ってはいけない。会社も同じ。持続可能なように、利子もつけて譲るべきだと。そして人も育てる。
 事業承継は、継ぐ側の熱意や能力に注目しがちですが、譲る方の姿勢がとても大事。もちろん、「もっと立派な会社にして次の世代にバトンを渡さなければ」という気持ちはあるのですが、同時に「会社は次の世代から借りているものであり、それをきちんと返さなくてはいけない。それは地域のためでもある」という意識が強くなりました。

――事業承継していく際に大事なことは何だと思いますか。

 譲渡したい人と引き継ぎたい人をマッチングさせる際、前者が後者に「あとはよろしく」ではうまくいきません。引き継ぐ人がやりたいような形で返してあげること。すなわち、引き継ぐ人が希望をもてるか、引き継ぐことで自分の夢がかなうか、そして従業員は十分な収入を得て自分の家族を幸せにできるか、なども考えて譲渡しなければならないと思います。
 現在、私と一緒に働いている息子は後継者候補のひとりですが、企業でよくあるケースは、社長である父親が専務である息子に事業を承継するというもの。そこで親が会長に納まって、息子の社長にあれこれ指図するとうまくいかないことが多い。私は社長を退いたら、ひょうたん温泉とは一線を引き、自分は市内の若者たちのために起業支援をするという夢をもっています。

――「地域のため」とおっしゃっていますが、具体的にはどういうことでしょう?

 黒字を出して、税金を納めることです。国民が納税しているからこそ、様々な行政サービスや医療、福祉、住居、清掃、公共交通、流通といった社会インフラが成り立っている。たとえば、急な病気になったときに救急車が駆けつけてくれるのは、私たちがきちんと税金を納めているからです。以前、大阪で生活困窮者の支援をしていた時、生活保護費をもらうとすぐにお酒や遊興などに使ってしまう人がいました。私は彼に「それは自分のお金ではない。私たちの税金から出されているものだから、好き勝手に使わず、あなたが生活を立て直すため、3食きちんと食べる、ぐっすり寝る、服を買うといったことに使ってください」と伝えていました。

――コロナ禍における医療従事者の方々への感謝にもつながるお話ですね。緊急事態宣言解除以降、経営状況はいかがですか。

 収入は通常の8割減です。この状態がいつまで続くかわかりませんが、持続化給付金などを受けながら、新しいメニューを試したりするなど、今できること、今しなければならないことをしています。

ひょうたん温泉内にある施設、温泉の蒸気を利用した「地獄蒸し」キッチン

――生涯活躍のまち事業についても、なるべく移動はしない、人との密は避ける、と居場所づくりや都市と地方の人の交流を目指す方向とは逆の風が吹いており、難しさを痛感しています。

 その点、別府は普段から「social distance」が成り立っているからいいですよ(笑)。別府はこの土地の広さ(約125㎢)に人口約12万人という、ほどよい規模で暮らしやすいと思います。温泉はもちろんのこと、海が目の前で海産物も豊富、安くておいしいですし。

――長期的な視点で見れば、コロナ禍が地方への人口の分散を進めるのではないかと思うのですが。

 新型コロナウイルスの感染者数が毎日トップニュースで伝えられていますよね。もし、首都圏や他の主要都市での感染者数が今より1ケタ少なくて、たとえば、大分県や熊本県、鹿児島県などのそれが1ケタ多かったら、マスメディアは現在のような報道をするでしょうか。これだけ連日、大々的に報道されているのは、政府やマスメディア、大企業等、多くの機能が集中している大都市の足元が危うくなっているからでしょう。たとえば、熊本県をはじめ、大分県や鹿児島県での豪雨被害は甚大なものでしたが、これが江戸川や多摩川など、首都圏で起きたとしたら、その何倍もの報道がなされると思います。
 マスコミによるニュースバリューの優先順位に文句を言っているのではありません。新型コロナウイルスの感染拡大という、大都市に住む自分たちの足元で起こっている危機によって、都市から地方への人の移動が進むかもしれないと思うのです。外的要因によって変化が起こる。その受け皿を地方がもっているか、どうか、で地方間の差が今後、生まれるかもしれません。

(聞き手 芳地隆之)